???着物の格づけはいつの頃から始まり、
どう変わってきたの???



1250年前の大宝令に衣服令という法律があって、官人、武人、庶民の服装を定めていました。
これが日本の衣裳の格の最も古い規定で、平安時代を通じて基準になっていました。
しかし、平安時代の王朝文化の繁栄で、服制は年々複雑になって、染色についても複雑なきめ事が出来て、この基準的なものを「式正」と言い、前例を踏まえたものを「先規」と呼んで、「式正先規」を格の基準としました。

こんな式正は公家では守られましたが、中世の武家時代に、庶民出身の武士が、必要に応じて決められた武士的な先規が加わると、慣行の方が重んじられてしまって、公家のものは公家だけとなってしまい、一般はむしろ武家風の先規を格と考えるようになって、服制の格は大きく変化しました。

それが、更に17世紀になって、中世が終わり近世が始まろうとするとき、もう一度大きな変転があり、江戸時代風の格が成立しました。
こらは以後約300年、明治に入るまで守られましたが、明治維新によって旧階級制と社会構造が一新すると、また新しい格が作られ今日にいたりました。





???着物の「格」には、どんな種類があるの???


その主体は、裾模様をつけた一越または二越縮緬(紋綸子も行われれます)の、染め抜き五つ紋付の黒留袖のことです。
これは明治の制度が、従来の乱雑なものを統一して決めたものです。
(羽織、打掛、かつぎ等をとり、下に白羽二重を重ねさせて、いわば中流階級武家婦人の礼装をもとに、それよりも簡素にしたものです。)
留袖(詰袖)は、振袖を短くつめて、振りを詰めた袖という意味の言葉で、本来は実家の家紋をつけ(今は婚家の家紋をつけたものが、多くみられます。)前身頃の褄下だけに模様をつけた、いわゆる江戸褄でした。
未婚時の華麗さを去って、結婚によってつつましやかにして、貞淑であることを表現していました。

これに対して、元来、主に公家婦人に行われていた色留袖も、既婚婦人の礼装として行われます。
結婚式用の黒留袖に対し、これは結婚式以外の晴れの場にも出られる礼装であり、紫やクリーム、ときには朱も使われます。
帯揚げ、帯締めなども派手で、重ねも白だけではなく色比翼も使われ、帯もきもの地に合わせた色の袋帯となって、すべてに儀礼性が少なく、紋も三つ紋のほか一つ紋のものも多いです。


略礼装を兼ねた晴着として、冠婚葬祭や物日のきものに、色無地と訪問着があります。
色無地は、小柄の地紋に縮緬の各種、しゃれたものとしては紬を使うこともあります。
染紋が普通ですが、繧繝ぼかしの場合もあります。
帯は袋帯が通常ですが、略装として紋織りの名古屋帯も使われます。
紋は一つ紋をつける場合が多いのですが、ないものもあります。黒絵羽羽織は、礼装的意味を消してしまうので、使わないのが普通です。

これに対して、現在でも広く使われている訪問着は、染めの縮緬、綸子に縫い取りの御召、柄を織り出した紬も使いますが、公式の場合は染だけとなっています。
帯は袋帯が本来ですが、つづれや色箔、刺繍の名古屋帯も使われています。

明治以来、婦人の晴着である付けさげ訪問着は、自由な生地や色紋が選べるので、次第に広がってきましたが、これは一種のしゃれ着と考えた方がいいようです。


喪服も元来一種の礼装であるから、昔は、神祭の斎服からきた白装束が使われていましたが、現在は一部の地方で肉親だけが使われます。
しかし、一般には圧倒的に黒無地五つ紋に、表裏ともに黒の名古屋帯、または袋帯を使います。
帯地は無地の繻子、きもの地は上方では縮緬、関東では羽二重地が多いです。
白羽二重か白綸子の長襦袢に、白の塩瀬羽二重の半襟をつけ、白きゃらこの足袋に黒草履をはきます。
この黒一色に対して、一つ紋の色無地に黒一色の帯、帯揚、帯締をつかう喪服もあります。略礼服として、小紋や御召しに黒共帯で済ます場合もあります。
夏には、黒の絽や紗をきものと帯に使うことも一般におこなわれています。



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