太秦牛祭の由来
京都洛西太秦の別格本山広隆寺は、今より約1330年の昔、推古天皇の十一年、聖徳太子の建立せられたわが国最古の佛法最初の伽藍である。
この本山で厄除けの神事として「牛祭」と称するすこぶる古典的な、古雅の趣味に富んだ有名な祭事がある。
ここにその由来を尋ねるに、今をさる約900年前、三條天皇の長和元年、一代の高僧、天台山(比叡山)の恵心僧都、日夜信心を凝らして極楽浄土の阿弥陀如来を拝ことを欣求せられた。
然るにある夜の夢に、安養界の真の無量じゅぶつを拝み奉らんと思はば、広隆寺繪堂(今の講堂)の本尊を拝すべしとの告げを受け、僧都大いに歓喜し直ちに広隆寺に詣でこの尊像を拝し、霊夢の空しからざるを喜び、一刀三禮して弥陀の三尊の像を手彫りし、常行念佛堂を建立し、同年九月十一日より三日間、唱名念佛を修し、マダラ神を念佛守護の神にして、国家安全、五穀豊穣、魔障退散の御祈祷法会を修行したのがそもそもの起こりである。
明治維新後、しばらく中絶しておったが、故富岡鉄斎画伯は、この900年の歴史をもつ古典的な有名の祭事の廃絶せんことを深く嘆き、明治20年、自ら筆を執りて復興趣意書を綴り、「世に神事祭禮多しといえども、古雅奇異なるのは、この祭りを第一とする。」となし、「これは、世間尋常祭禮を行うと同視すべきにあらず。」と高唱して、大いに斡旋せられてこの「牛祭」を再興し、陰暦を陽暦に改め十月十二日夜(午後八時)祭事を行うことにしたのである。
さて、この牛祭の儀式は、簡単であるがすこぶる古雅の趣味に富んで居る。
その行列は
* 棒持(金棒)・・・2人
* 高張・・・・・・・・・2人
* 各町~燈・・・・・28人
* 囃方・・・・・・・・・6人
* 箱堤燈・・・・・・・2人
* ~事奉行(上下着用のもの)・・・4人
* 若窯(今はなし)
* 松明・・・・・・・・・2人
* 四天王・・・・・・・4人
* 松明・・・・・・・・・2人
* 弊持(今はなし)
* マダラ神(乗方)・・・1人
* 牛方(マダラ神の周囲に提燈松明を持して、従うものの数は時に増減あり。)
* 牛肝烈・・・・・・・1人
* 青年会高張・・・・9人
この順序でマダラ神は寺の客殿の庭にて牛に乗る。
そのとき寺僧は牛に対して灑水加持し祈祷の後、徐々と西門を出て山門の前をよぎり、東門より假金堂前の式場に入り、祭壇を3週した後、牛を下りて段に上り、マダラ神は正面に腰掛け、四天王はその後方に槍を持ちたるまま直立し、さて後、マダラ神の発声にて祭文を一種特別の節付けにて朗読する。
この祭文は、恵心僧都の作と伝えられすこぶる長く、各段ごとに息を入れ徐讀するから約1時間を要する。
かくて、祭文を読み終わるやいなや、マダラ神は祭文を、四天王は槍を持ちたるまま、急遽堂内に突入する。
これにて祭事は終わりを告ぐるのである。
この祭事に用いるマダラ神の白面と、四天王の着ける青赤の阿(開口)吽(閉口)の鬼面と神面を常夜参詣の希望の人に授與する。
この面は、家の入り口、また床柱に掛け置けば、厄事災難除けの守りとなるとつたえられ、また、昔は家を新築してその棟上の時、この面を棟木札に用いたもので、人競うてこれを受ける例となっている。
なお、この牛祭は昔は夜の戌の刻におこなわれ、京への帰りもよほど遅くなりしと見え、
油断して 京へ連れなし 牛祭 召波
夜は更けぬ かへさは遠し よしやこの
鬼のすみかに 宿やからまし 連月
などの句にあるにても知られるが、今は午後八時頃より行うことになっているし、嵐山電車はすぐ山門前へと通過しており、大阪からは京阪の電車があるから、式が終わりてから優に帰阪ができてすこぶる便利である。 |